珍説弓張月 鎮西八郎 老猴、塔に登りて主を辱かしめる
八郎冠者為朝は、重季、山雄を喪いしより、気分も晴れず、行く末の処し方などを思う日が続いていた。
そんなある春の夜、為朝は寝覚めに夢を見た。
ひとりのおなごが、白綾の袿(うちぎ)に同じ色の袴を穿き、紅の一枝の花を頭髪にさして、枕元に立って
「近頃、あなた様に養っていただいたおかげで、私の体も丈夫になり大変うれしく思います。今こそお伝えいたしましょう。若君は、明日私を連れて肥後に向かい阿蘇の宮のほとりにて、私を放して下さい。そうすれば、必ず艶やかで賢い妻を娶り、然るべき後ろ盾も得られることでしょう。私とはここにてお別れとなりますが、しばらくすれば、南海の果てにて、またお会いできることでしょう。」
と言った言葉が終わるとともに為朝は目覚めたのである。
その夢を考えると思いつくのは、近頃養いしとは鶴であろう。その鶴が将来の為朝の妻となる女子の姿そのままを見せるように告げるというのは、その鶴が神に通じているからだろう。吉祥である。
そう考え、些かも疑わず、翌朝、居候となっている館の主人である権守季遠の母屋に行って、
「近頃、一匹の鶴を手取りにしたのですが、その鶴、曾祖父の義家朝臣の放ちしものとみえ、黄金の牌を付けています。その鶴を肥後の国の阿蘇の宮に奉納いたせと、夢によるお告げがありました。差支えなければ阿蘇の宮へ向かいたいのですが。」
と報告したところ、権守は予てより為朝の智勇を大変恐れていて、このままここに留めていたら、終には自領を奪われて、自分の身が危ないのではないかと、思っていたことでもあったので、これ幸いと密かに喜び、
「差支えなどあろうことか、遠慮なく行くがよい」
と答えたのであった。
為朝は大変喜び、野風と名付けた狼を紀平治に預け、季遠の下人二人を雇い鶴を籠に入れ担がせ、田舎侍のようないでたちで、翌日には肥後の国に旅立ったのである。
そのころ肥後の国は阿蘇郡(あそごおり)に阿曽三郎平忠国という武士がいて、阿蘇、詫摩、球磨の三郡を領し、家臣も大勢を養っていたそうな。その妻は早くに亡き人の数に入り、娘ただ一人ありて、名を白縫と呼ばれていた。今年、二八の十六歳にて、姿は白百合のように艶(あで)やかで美しいことから、「ぜひ嫁にしたい」「なんとか婿になりたい」とあちらこちらより申し込みが来たのだけれども、白縫さん(知らぬ 久しと)承知しない。
なにしろ、そのお方は、姿はこのようにみやびやかで、心映えは勇ましく大丈夫(ますらお)にも劣らない。また、生れつき太刀や弓を嗜むのを好みとするものですから、その腰元である女童(めわらわ)に至るまで薙刀の一手ぐらいは習っているという。
そういう姫君であってみれば、
「夫として一生寄り添うのであれば、智勇兼備の武士(もののふ)でなければなりません」
と誓っていて、縁談を片端からはねつけてしまう、結果、定まった婚約者はいないという有様であった。
そんな白縫が普段から飼いならし、大事にしていた猿がいた。
この猿、人の言葉が分かり踊りなどもマネするのだが、年を経て姿かたちが大きくなってきて、八つ九つぐらいの人の子の大きさになっていた。
三月(やよい)の下旬(すえ)、庭の「おそ桜」を生け花用に手折ろうと、名を若葉という腰元の一人を木の下に立たせて、縁側から「この枝を」とか「あの枝」とか指で示していたところ、白縫姫が傍に連れて来ていた例の猿、眩しそうに目を細めて、若い腰元が裳裾もあらわに立ち振る舞う様を、つくづくと見ておりしが、突然走り出でて、抱きついたのである。
抱きつかれた腰元、若葉は驚いて逃げたのだが、猿は執拗に追いすがりみだらな行為に及ぼうとする。
白縫、これを見て、大いに腹を立て、
「汝は畜生の身にありながら、人を辱めんするとは」
と叱声を上げるやいなや、長押にあった薙刀の鞘を払って、猿をエイッとばかりに打ち据えようとする。
猿はこれには驚いて築山の上に逃げ出す。その逃げた猿を館の者があちこち追い駆けたものの、猿は行方知れずとなった。
その夜、丑三つ時、館に響く女の悲鳴。
その絶叫で目覚めた白縫が見たものは、襟元を顕わにされ、喉笛を食い破られ、朱に染まった彼の若葉なる腰元の死骸のほとりに、その血を踏んだ獣の足跡であった。
白縫から話を聞いた父忠国も大いに怒り、
「許すべからざること。疾く物具を揃え、家来どもを集めよ。」
と急がせれば、一人の小女走りゆきて、その旨を告げる。
時も移さず、手取りの与次、同じく与三郎、大矢新三郎、腰矢源太、松浦二郎、吉田兵衛、打出紀八、高間三郎、同じく四郎など、一人当千の家隷(いえのこ)が、庭先より走りくる。
その時、忠国、屋敷の縁に立ち出でて
「かくかくしかじかである。木を伐りて、草の根刈り分けても、彼の猿を追い捕らえて、撃ち殺せ」
と呼吸も荒く命じれば、皆、
「承知いたしました」
と答えて、東西へと走り去り、それぞれが松明をかざし、屋敷の四隅を探索する。
そのうち、
「たった今、築垣を越えてそちらに逃げていきました」
と声がする。
その声に応えて、手取りの与次が、月影が照らす中を、手鉾を振るって猿を追うも、猿は松の梢を伝わり、家の外へ、門外へと逃げ去って行ったのであった。
だが、逃げた猿をそのままでは措くまいと、追っていた館中の家隷(いえのこ)は皆、門前に集い来ると、門をさっと押し開け、飛ぶように 猿の逃げた後を追いかけて行く。
さて、阿蘇山の麓に文殊院という古寺があって、弘法大師の開基という。なるほどそのような立派な伽藍を持っている。忠国の家来たちはこの寺の門前にまで、猿を追い詰めていった。こうなれば捉えるのは簡単だと思いしもつかの間。猿は築地を飛び越えて境内に入り込み、終には仏塔の九輪の上、当時の言葉で言えば「火珠(かじゅ)」と呼ばれるところまで登って行ってしまう。
忠国の家来たちは、寺の門をたたいて門番の老爺に門を開かせて、境内には入れたものの、仏塔の上、九輪の一番上にいる猿を捉える方法はない。虚しく塔の周囲を取り囲んでみまもるだけ。そのうち夜も明けてくる。鳥の声もする。山際も紫になって来る。そして陽光が指し照らし始めるころ、忠国も馬を駆け足で駆り、多くの師卒を率いてやって来る。
忠国、この光景を目にして、
「あれを射落とせ」
と、いらだち命じたが、この塔は五重之塔であるうえ、丘の上に建っていて、塔前には大木の松の枝が曲がりくねって邪魔をしている。おまけに辺りは朝霞がたちこめている。
かの唐の独眼竜、木の葉や糸に吊るした針を射て百発百中の弓の名人にして、黄巣の乱鎮定に功績を挙げ、朱全忠と激しい権力争いを繰り広げた猛将、李克用でも射るのはたやすくないと思われた。
しかも、射損じたならば、我が身のみならず主君の恥でもあるのだ。
というわけで、誰も射撃の命を承ろうとはしなかった。
猿は、はるか上の方から人を見下ろし、尻をこちらに向けて、ぺんぺんと打ち鳴らしたりする有様で、実に忌々しい。
忠国は歯を鳴らして大いに怒り、
「累代武門の家を継ぐ我家の恥、あの人を馬鹿にする畜生を叩き殺すまでは家に帰らぬ」
と言って、
「文殊院塔上の猿を射落とした者には、最愛の娘、白縫を妻あわすべし。久寿元年三月 阿蘇三郎忠国」
と書いて門前に貼らせた。
それでも人々は、それを見ても、ただただ集まり騒ぐだけで、名乗り出る者はいない。
おりしも、その時、我らが英雄 八郎為朝は当国に到着し、阿蘇の宮へ詣でんと、かの鶴を従者に背負わせ、文殊院の傍を通りがかろうとしていた。人がたくさん集まっている門の柱には、忠国の書いた文書が貼り付けられているではないか。
「これぞ夢のお告げよ。美しい妻を娶ることにならんというのはこのことであろう」
と悟り、門内に入り、忠国の方に向かって、
「それがしが、彼の猿を射落としてご覧に入れましょう」
と宣言する。
忠国がその声の方へ目を向けてみると、その声の主は、年の頃十六七、筋骨逞しく、色白で鼻が高く、眉毛の濃さは青山を欺き、唇は紅で春の花の如し、耳厚く、瞳が二つある(貴人の身体的特徴で重瞳ともいう。斜視のことであろうという説もある)、身の丈は七尺余りもありそうに見えた。
「ただものではない」
と驚嘆せり。
為朝は従者を待たせ、弓矢をとって丘のほとりに歩み寄る。
(原典の現代語訳及び脚色、小説化は、本FBページ主の いい しげる によるもの)