鎮西八郎 義家放生の鶴

須藤重季のその姿に、為朝、

 

「日頃の覚悟のほど確かに見届けた。雷に撃たれようとも、その珠を全うするとは、かの藺相如(りん しょうじょ)の忠にも優るものであった。須藤の志は無駄にせぬぞ。」

 

と、その珠を手に取りて見てみると、その輝きは明月のごとく、世に類なきものと思われた。

 

 

そこに山道の幾重にも曲がった険しき狭い崖道を、雨にずぶ濡れて、やって来る者があった。

 

八町礫の紀平治である。

 

彼もまた、御曹司がそこにいると分かったのであろう、大急ぎでお側に参上しようと走り来たのである。

 

 

須藤が落雷で死に、山雄が蟒蛇と一緒に死んでいる様子を見て、紀平治は大きに驚き、まず何が起きたかを為朝に尋ねたものの、さすがの為朝も悄然として、涙を含みながら、少しづつ物語る物語に、紀平治もまた、ますます驚きを重ねていくのであった。

 

紀平治は重季の死を悲しく思い、山雄をいとおしく思うも、クスノキの根を掘り穿ち、重季の屍を埋め、その傍らに山雄をも埋めた。

 

さて、何かを勇者の眠る標しにせねばならぬと、為朝は、自ら大石を二つ、何か軽き物を扱うように持ってきて、墓碑のかわりにした。

 

そうして、為朝は「亡魂正天脱苦与楽」と念じつつ、紀平治と共に山を下ったのであった。

 

 

為朝と紀平治が、重季と山雄の冥福を念じながら山を下っていると、細い谷川を隔てて向こうの峰から、突き出した松の枝に、年を経て高貴さを増したただものではない鶴が、枝に絡まり、飛ぼうとしているのだが、うまくいかず、煩悶している様子であるのを、為朝は遥か遠くから見つけた。

 

「あの鳥の足元に糸のようなものが付いている。それが枝に纏わって飛べないのであろう」

 

そう言ったので、紀平治も頷いて

 

「仰せの通りかと。それがしが、礫で撃ち落としてみせましょう」

 

と言いて、忍び寄って狙いをつけるのに、為朝は直ちに押しとどめる。

 

「礫でこれを打てば、命はない事であろう。どうにか傷つけないように射てこそ、重季や山雄の供養というものだ。これは放生会ぞ。」

 

という言葉も終わらぬうちに、丁と矢を射た。

 

 

すると、絡まっていた枝と糸の間を矢は飛んでいき、たちまち鶴は枝を離れ、谷川に堕ちて行った。

 

紀平治はこのありさまを見て、クマザサを手探り、藤の蔓を伝わりながら、谷底へ降り、その鶴を抱いて戻って来た。

 

鶴は羽を損ない、とても飛べるような状態ではなかった。

 

 

紀平治に抱かれてきた鶴は、ひどく羽を損なっていて、飛び去ろうとしても飛び去れないほどの様子であった。


為朝が見てみると、足には黄金の鎖を付けている。

 

 

「この鎖が、枝に絡まっていたがために、動くことも飛ぶことも叶わなかったのであろう。放った矢が枝を切り、ようやく枝を離れたと思える。」

 

鶴の足についた黄金の鎖の先には、これも黄金の牌(ふだ)が結ばれている。これを見てみると、

 

「康平六年 三月 甲酉 源朝臣義家放つ」

 

と彫り付けられている。

 

 

これを見て、為朝、

 

「昔、奥州にて前九年の戦いの折り、遠祖頼義父子、数多の逆徒を誅戮し、このことを嘆いたという。貞任(さだとう) 宗任(むねとう) 退治の後、討ち取った兵の耳を削ぎ、それを六条坊門の北なる西の洞院のほとりに埋め、その上に一つの堂を建立したという。


それが今でいう耳納堂(ちょうのうどう)ぞ。


源義家朝臣も彼の地で、亡者追福のため、数多(あまた)の鶴を黄金の牌(ふだ)をつけて放したそうな。


これもその一匹であろう。


康平六年より、今年の久寿元年に至る、およそ九十八年、時は今三月、日も今日は酉である。なんと、いかにも奇妙な巡り会わせだ。


これは、曾祖父義家朝臣の神霊が導いてのことにちがいない。」

 

と、鶴を自ら懐に抱いて、屋敷に帰っていき、丁寧に世話をし、手ずから餌も水も与えて、養ったところ、幾日もたたないうちに、鶴は元気になったという事である。

 

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黄金の牌(こがねのふだ)が結び付けられていた鶴

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前九年合戦 東京国立博物館