椿説弓張月 為朝弓勢問答

当時の瀧口武者(たきぐちのむしゃ)というのは天子の居室がある清涼殿の警護を務める武官であり、京では兵仗(武器)特に弓箭(弓矢)を帯びることは正規の武官以外には許されていおらず、ただ瀧口武者のみが弓箭を帯びて宮中に出入りすることが許されているという、武官にとって誠に名誉の職であったし、その任命も、新たに天皇が即位のときに、摂関家や公家らが家人(侍)の中から特に射芸に長じた者が推挙されたという。当然、選ばれた武者はいずれも弓矢の上手である。この時代の武士ならば誰もが腕を磨いて瀧口武者になりたいと、そう憧れられる腕に覚えがあり、公卿衆にも知られる地位の者たちであった。

 

ちなみに、有名な瀧口武者には、滝口小二郎と名乗った平将門や滝口入道と呼ばれた斎藤時頼、また長谷部信連などがいる。

 

というわけで、この式成(のりしげ)則員(のりかず)も当然、弓矢の名人、特に的弓の名人として知られていた猛者なのである。

 

であるから、誰もが
「為朝に、例え六臂(六本の腕と手が)あろうとも、式成(のりしげ)則員(のりかず)が放つ、強く速く正確な矢を逃れる術はなかろう」
と思うのは当然だったろう。

 

だからこそ、見るに見かねた関白の頼長公が
「為朝は身体こそ大きいが、まだ嘴が黄色い小童だ。信西入道よ、大人げないぞ。」
ととりなしたのだったが、為朝の父である為義朝臣
「為朝も十三歳。そんなに幼いというわけでもありませぬ。もしこの大言壮語に似合う事もせずということであれば、為朝一人の恥のみならず、源家累代の武名を汚してしまうことになりかねません。ここは何卒、御免蒙りて、彼がしたいようにさせてやって下さりませ。」
と言葉を添えたのは意外だったかもしれない。

 

だが、我らが英雄、為朝は、父のこの言葉に、なんと欣喜雀躍、信西入道に対し
「式成(のりしげ)則員(のりかず)は無双の弓取り、彼らの矢面に立てるとは、こんな嬉しいことはない。ただ、その矢を捕らない事にはわが命はないことであろう。されば私は私の命を入道殿に預け申し上げよう。もし私が彼らの矢を捕ったならば、入道殿は何を私に下さるのかな。」
と言う。

 

信西笑いて
「その矢を捕らば、この首を進呈いたそうぞ。」

院の御所で兵器を弄び、人を射殺(いころ)させようと密かに楽しむ悪しき行いをしようとしているのに、些かの躊躇も見せずに信西は、式成(のりしげ)則員(のりかず)に
「疾く疾く」
と矢の催促をしたものだから、二人の弓の名人は二本ずつの矢を代わる代わる為朝の胸をめがけて放ったのだった。

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受ける為朝、目にもとまらぬ速さで立て続けに放された矢の二本を左右の手で捕らえたかと思うと、一本を着物の袖の袂で縫止させ、残る一本を口に咥え込み、おまけにその矢じりを噛み砕く。

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宮中の見物人は、為朝の神技を前に沈黙し、やがて時を置いて驚愕のどよめき声をあげる。

 

信西入道は面目を失い、為義為朝親子に恨みを抱き、為朝の名は、この日を境に、世に一層高くなったというわけである。

 

その日、為義為朝親子は新院よりお褒めの言葉をいただき、無事に館に帰ってきたものの、為義は、今日の出来事で、信西入道の怨みを買ったと判断し、為朝を筑紫の国に下らせて音信を断つように指示した。為朝を守るため、表むき勘当し追放したように見せかけたのである。

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(原典の脚色現代語訳と小説化は本FBページの所有者 いいしげる