2015年7月16日の平和安全保障法制の衆議院通過について 「YAHOO 意識調査 安保法案が衆院特別委で可決、あなたはどう思う?」に述べた意見

お札を外しちゃなんねえ!ばちが当たるぞぅ〰!
このくされ外道めが〰

++七人の侍で平和安全法制を考える++
  (因果関係がさかさまな件)

(イベント) (松毬教信者の村人の反応)
60年70年安保 ← 戦争になるぞ!
PKO ← 戦争になるぞ!
テロ対策特別措置法 ← 戦争になるぞ!
秘密保護法 ← 戦争になるぞ!
安保法制 ← 戦争になるぞ!

七人の用心棒(平和安全保障法制)がいるから、野武士(戦争)が来るぞ〰ではない。
野武士が来るかもしれないから、用心棒のサムライが必要なんだ。

「9条・不戦・平和」のお札を戸に張り付けて、悪霊退散・野武士退散を祈るのが、村のしきたりだ! 昔、えらーい松毬(マッカーサー)という行者さんが村にやってきてその方法を伝えたのを「そーだ、そーだ」と感心して村人はみんな帰依しただ。で、お札を拵えて、「9条・不戦・平和」を唱えて70年、何で今になって「人殺し集団」を雇わなきゃならねえだ。この罰当たりめが・・・と言っているわけですよね。反対している村人たちは・・。

現実を無視してるわけですよ。

シナ村の野武士達は自分らの村の南の境界線を越えて、はるばる、よその村まで行って、ここらは俺の土地だ言って、そこいらじゅうの娘を無理やり手ごめにして妾にして囲い込んでいます。
オイラ達の村の西のはずれにある沖縄家の娘たち(尖閣姉妹)の周りも野武士たちが周りを取り囲んで、「お前は俺のものだ」と叫びながら、いやらしい目で無礼な行いをしています。今までは興味を持っていなかったんです。隠し財産を持っていると聞いて、急に魅力的に見えてきたのでしょう。
沖縄家のかつらをかぶった家長は野武士の機嫌を取るばかりで、娘を守る気がまるで見えない。

憲法論にしたって、法哲学に踏み込んでもいない解釈学だけを議論しているに過ぎない。
憲法学者憲法に関する解釈や議論はできるしその道(解釈や議論)の専門家だ。専門家として意見を述べる権利があるし、意見を述べるべきです。

しかし、今騒いでる連中は法律を解釈学として教条的にしかとらえられない人達です。法学、法哲学がまるで分っていません。法の法たるゆえんが分かってないのです。

「人殺し法案」などとレッテル貼りする、およそ学者らしくない輩すらいる。

憲法に「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」とあるように、主権者たる国民の意思は立法機関を通じてなされるというのが、日本国憲法の大前提です。つまり国民主権が私たちの憲法の第一理念として一番最初に記載されていることを忘れてはなりません。

立憲政治下の国民の合意は、そのまま「憲法制定勢力」なのです。これについて述べる学者が皆無なのは解釈学を以って憲法学とする日本の憲法学会の限界です。

もう一度言います。国家の有り方を主権者たる国民的合意として明文化したものを憲法とした・・ということを日本国憲法がイの一番の文章で宣言しているのです。

そして、世間の憲法学者は意見を述べているつもりかもしれませんが、それは「解釈」について述べているのにすぎません。その「解釈」が国民の合意を示すものであるはずがないのです。

こんな道理もわからず、国民扇動の旗頭になろうとするような輩は、まさしく曲学阿世の徒だと非難されて当然であると思います。

立法府国難を乗り越える措置をタイムリーに行うよう促すこと、国民の代表たる議員に必要な改革を促すことが議会制民主主義です。主権者たる国民と議員の責務といえるでしょう。国難を論じず、ただ解釈論だけで、立法府の議論を葬るのは立憲主義ではない。

立憲主義国家において、主権者の代表たる議員によって審議された平和安全保障関連法案は速やかに成立させるべし。必要なら憲法改正も次の課題とすべきです。