レッテル貼りは止めよう  洗脳の恐ろしさ


他人に売国奴とか左翼だとかレッテルを張る人がいます。
ある特定の発言や行動を具体的に批判するのではなく、「こういう発言をする人間は○○である」とレッテルを貼り、そこから思考をスタートさせる種類の人々のことです。レッテルを貼ることによって、物事が単純化されますので、あたかも何かの結論を導き出したつもりになるようです。
困ったことに、最近増えてきているように思えます。
特に匿名性の高いサイバー社会の中で、その傾向が強いと思います。

一度レッテルを貼ることになれてしまうと、貼ったレッテルで人を判断するようになります。これはまさに「偏見」と言うものです。

人の意見は常に変化するものです。年齢、性別、家族環境、職業や社会の立ち位置が違えば物の見方が違って当然だし、その時の感情によっても意見というものは左右されるものです。
「信念」だけで意見が語れる人、「責任」だけで意見を語る人。「立場」だけで意見を語る人もいるでしょう。「感情」だけが意見の根拠となる人もいます。
人の意見は、その人の「人格」その物ではありません。それを判断するための材料にはなるでしょう。それでも「人格」その物ではないのです。

意見が異なっていても、全くの同意見だとしても、或る人の発言や行動をもとにその人にレッテルを貼って、それで「この人は○○である」と判断することは自分が偏見の持ち主であると世間に宣伝しているようなものです。
こういう人間にはなりたくないものです。


人に貼るレッテルを自分の感情移入ができる言葉にすると自己に暗示をかけることができます。感情移入の単純化です。
身近な例で、ある人から(自分から見て)些細なことで(やはり自分から見て)要らざる注意を受けたような時に、その人に「自分を目の敵にする奴」と言うレッテルを貼って見れば、その意味が解るでしょう。
一度貼ったレッテルは容易に修正したり剥がしたりできなくなるのです。
もし、ふとした瞬間に、その人の意外な面が見えたとしても「自分と変わらない普通の人」だと認められなくなっている自分に気が付くでしょう。

レッテル貼りは物事を単純化して、一見分かりやすくします。
しかし、その単純化は自分の思考能力を奪い、行動を粗野にします。

レッテル貼りを国家や政治団体がやればプロパガンダです。
個人に対してそれを執拗に繰り返せば洗脳です。
特定の感情を植え付ける方法でレッテルを貼ると、強力な洗脳ができます。
洗脳に適した感情は嫉妬心や恨み、怒り、嫌悪感などが効果的です。
脳内の海馬に働きかけるインパクトが大きくなるので洗脳が解けにくくなるのです。
(広義の洗脳と言う意味です。マインドコントロ−ルと同じです)


ある特定の外国に嫌悪感を植え付けるときにその外国をある嫌悪感と結びつくレッテルで呼ぶようにすると、レッテルがその外国から剥がれなくなります。
これがある国が行っている「愛国教育」です。
レッテルの例をたくさん思い出しませんか?
これは恐ろしいことなのです。洗脳された事実=誤解を解くのに、時間どころかお互いの血が代償として必要になるかもしれません。
日本でも特定の外国や外国人を蔑称で呼ぶ人がいますが、彼らも同じ論理で、すでに洗脳されてしまっているのです。

同じように特定の個人を「売国奴」「左翼」「右翼」「ネトウヨ」「ニート」等のくくりで呼ぶことは避け、行動や言論の具体的なものを批判するように心がけなければなりません。
そうでないと知らず知らずのうちに洗脳されてしまったり、洗脳の片棒を担ぐことになってしまいます。