成仏や仏という概念を日常の言動の中に見い出す

正と悪からなる二面的社会観で支配される世の中は、争いのたびごとに「懺悔」と「許し」が必要になる社会です。そして、その社会で必要となる「許し」の概念の存在は「正」の側が「悪」に行う一方的行為です。

日韓関係や日中関係に見るまでもなく、それが論議される社会空間では、イデオロギーやドグマが支配しがちです。人間が社会的動物であるがために、その社会の桎梏から逃れる方法は、私の知る限りでは、世捨て人になるか、社会が社会の桎梏を無意味なものとみなすか、どちらかが必要となります。

しかしながら、そのどちらも人類誕生以来満たされない条件なのです。

それを知ってすべての言動が出来る人がいるならば、その人は「成仏」できた人そのもの、つまり「仏」ではないかと思っています。