法学における「国際性」とは【日本の国益を守れる法学者がいないという現実】

日本の法学部卒業者は第一に官僚、第二に司法を目指すため、国際感覚に欠けるものが多い。殆どだと断定できるほどだ。


私の師である駒沢貞志先生とその師ハンス・ベルツェル先生からは「国際性」、言い換えれば「人類共通の価値(普遍的価値)として法的保護を与えうる物差しを作る」ことの重要性(だけ)を私は学んだ。

大学以上の高等教育を受ける者にとって、社交性は非常に重要である。
社交性とは明治以降は国際感覚を持った「国際性」をその重要要素の一つとして包含していなくては意味がない。


いまだに、象牙の塔の住人が、浮世離れした「仙人」や「権威」として別格扱いされて有難がられる風潮が日本にある。「田舎者」や「その追従者達」が世間やマスコミの主人公になっているからだ。

それはおかしい。世に普遍的な真実が「何であるか」を伝える伝道師や教師の役割こそが彼らに求められていることだからだ。世に普遍的な真実が「何か」を伝える伝道師や教師の役割が出来なければ、害悪を世間にばらまくだけになってしまう。彼ら「田舎者」や「その追従者達」は日本人や人類の宝を独り占めする「権力者」か「その追随者」に過ぎないということだ。


悲しいかな、自然科学の分野における活躍が讃えられる日本人が法学の分野で世界的な法概念の構築に寄与した話があるなどとは、今の今まで聞いたことがない。


解釈のための解釈学が日本の法学会だ。
そこには、倫理と哲学が決定的に欠けている。人類の普遍的価値を追求する哲学なしに、地球上の最も優秀な霊長類を称する人類が、歴史の中で血塗られた過去を持つにもかかわらず、神の領域に及ばずとは言え、いかに人類共通の価値観(普遍的価値)を認識し、どうやってそれを人類に寄与させるに至ったかを語ることは不可能だからだ。


その考察を日本の大学のどの法学部でも充分に行っていないのが現実だ。
おそらくは、考えたこともない人間が殆んどだろう。