原発事故は歴代政府の責任こそ問われるべきだ

原発事故に関する東電の報告書に批判が集まっている。しかし、反省しなくてはならないのは歴代の政府だ。東電は認可を得て原発を推進した。700年か1000年に一度の津波を想定外としたことが問題化されるのはおかしい。問題化されるべきは政治や行政がその判断に関与しなかったことだ。

1000年に一度の災害を考慮すべきかどうか、10000年に一度の災害を考慮すべきかは監督官庁や科学者の手によるべきだろう。 一私企業が自主判断すべきものなのだろうか?その議論が今回なされたとは思えない。

原子力損害賠償法は第3条で異常に巨大な天災地変や社会動乱の場合に国家が賠償の責めを負うとしている。今回の津波地震が「異常に巨大な天災地変」でないならば、この法律はいったいどんな場合に適用されるというのだ。そもそも、「異常に巨大な天災地変」の定義は議論されたのだろうか?それを伝えるのが政府とマスコミの役目である。


原発災害が異常に大きな天災地変による場合の賠償責任は国にある。にもかかわらず、東電と言う一企業に政府は責任を負わせた。 国の責任は「東電による電力料金値上げ」批判や自己弁護への批判に置き換えられている。 なぜ、歴代の内閣の責任が問われないのか? 東電役員の天下りより、よほど大きな問題ではないか?

仮に東日本大震災が昨年起こらなかったとしよう。そして今後100年以内に15%の確率で起きると科学者が報告したら、国民はその対策費として数百億円の負担を受け入れると言うのだろうか。 未来の可能性として提示された場合、現在と同じように東電を批判できるのだろうか?

科学者や監督官庁有識者の出番がここである。なぜ、その論議が過去になされなかったのだろう。そして、いまも東電だけを悪者にして話を終えようとしているのだろうか?

将来の危険に備える投資に日本国民はどのくらい賢明に、どのくらい真剣に危機感を持てるというのだろうか? 衆愚政治は扇動によっても、無関心によっても、利益誘導によってもおこる。 マスコミは問題を東電に押し付ける単純化を止め、物事の本質を伝えるべきである。