中国 文化大革命の遺産


この文革時に「南京大虐殺」なる話は存在しなかった。南京には蒋­介石に殺された20万人の中共党員のために雨花台烈士記念館が建­設され、文化大革命の70年代、南京では国民党に虐殺された革命英­雄を追悼していただけである。誰も日本人による南京市民の虐殺という日本帝国主義の蛮行」など知らなかったのだ。

やがて文革が終わり民衆の民主化への希望­の光が差し込むと、中共の保守派は改革を恐れ、巻き返しを図る­。これが80年代の反胡耀邦運動(反日運動)である。

83年に南京大虐殺館の建設­が計画され、85年に完成。靖国問題と呼ばれる問題が浮上したのも同じ85年である。87年に胡­耀邦が失脚する。
80年代初めから、胡耀邦は、趙紫陽とともに文革の混乱を一掃し、憲法を制定、中国のオリンピック参加、西側諸国との関係改善を進める等の改革を行い、中共­における民主化の旗手であり、また、新日鉄の技術援助による上海宝山製鉄所の建設、日中原子力協定締結や新中国建国35周年に日本の青年3千人を招待するなど親日家としても大変有名であった。かって反儒教・反孔子運動が周恩来に向けられたように、中共守旧派達は「日本の右翼帝国主義者らが軍国主義の復活を狙っている」として反日キャンペーンを始めたのだった。
そして、87年1月に胡耀邦党総書記の解任となる。

89年に六­四 天安門事件が起き、趙紫陽失脚とともに改革派は一掃され、保守派の天下となる。その結果、文革の反省は退けられ、愛国教育の中で文革の血生臭い歴史は日本帝国主義の蛮行」の陰に隠ぺいされ、歪曲され、民衆の耳目から遠ざけられた。誤った歴史観に基づく保守政治­と恣意的に曲げられた自由経済のアンバランスはその後の中国を蝕み続けていくことになる。

中共は日本に対し過去の歴史の反省を繰り返し求めてくるが、反省が必要なのは政権奪取後8千万人と言われる人々を死に追いやった中共である。