原発議論について

原発の再稼働の是非、原発の推進か廃止か・・・・これらの議論について、私の考えを述べます。

国民が判断するためには、[[専門家による事実の提示]]と[[政治の選択肢の提示]]の­­2つの段階が必要です。
第一段階の事実の提示においては 専門家が直接国民に向かって解り易く説明を行うべきです。
原発本­­体のことであれば原子炉や機器の専門家。放射線の健康への影響­で­あれば放射線医学の専門家が行うべきです。 解らないことがあれば、解らない理由を添えて正直に説明すべきで­­す。
解説は必要ですが批判や批評、あるいはコメンテーターの存在はこ­­の段階では不要で、害悪です。
この段階では利害の推測が必要な­の­ではなく、冷徹な事実その物が必要なのです。 その場を確保するのは政治とマスコミの責任です。



事実を理解したうえで、第2段階として政治家は国民に複数の選択­­肢を提示すべきです。 政策の選択肢を示すことは政治家の仕事です。
原発の再起動と電力の供給の問題。 原発を推進するかしないかの議論。 すべてに「この道を選んだときに国民負担はこうなる」という選択­­肢の提示です。
この時点では安全性そのものの議論はありえません。 判断の材料としての安全性を含めた得失や利害が焦点になるのです­­。
ここを­間違えると世論操作です。



私には、第二段階の政治家による国民に対する選択肢の提示が全く­­なされているとは思えません。
政治家は原発の再稼働をする場合­を­、その稼働時期がどうなるかによって、国民負担がどう変わる­のか­を提示すべきです。
つまり、再稼働後の原発を廃止すると国民­が決め­たなら、廃止のためにどのような計画を立て国民にどうい­う負担を­求めるのか。
推進すると国民が決めたのならば国民の負­担はどう減­り、危険はどう増えるのか・・・・・という選択肢の­提示をすべき­です。




今の日本国内の議論は議論の段階を無視し、銘々がそれぞれの危機­­感を背景に持論を叫んでいるだけです。
いま、政府がなすべきことは決めることではなく、選択肢を数多く­­提示することです。
無知と頑固、非科学と科学、放射能の恐怖と飢餓の恐怖がお互いを­­非難し合う愚は避けるべきです。より良き環境で繁栄を家族、地­域­社会、国家、世界で享受できることが目標のはずです。