心なんかあてにできませんよ。心は暴れ者です。我執を越える。

人は自分の「思い」や「気分」や「感情」を自分だと思って生きてしまいます。生きている証拠を得るためにとても大切な「思い」ですが、「思い」を実現したり、その場所を見つけたり、その場所が自分の住んでいる世間で、それを変えられないと思ってしまいがちです。もしその「変えられない世界」が世の中の姿だとすれば、この世はホントに住み難いものです。

自分の「思い」や「気分」や「感情」は自分が生み出している欲望であり、野心であり、幻想なのです。自分が生み出している・・と言うことに気付かねばなりません。この「自我への執着」が、心の悩み、人生問題をとめどなく再生産している根本原因なのだと、仏教は教えています。

だから、「我執」を絶つということになるのですが、そんな難しいことを言っても実行しようがありません。


私は、こう考えます。

自分の「思い」や「気分」や「感情」を自分だと思うというのは、たとえれば、自分の進む方向に列車を通す線路を引くようなものだ。
その線路の先に、思いを実現する場所や機会があるのだと思ってしまうのです。これが「我執」です。

その線路が塞がれると、先に進めなくなってしまうのです。

どうすれば良いかは、発想の転換しかありません。

釈迦もキリストも修行で悟りや神の啓示を手に入れられなかったのです。

世の中は1次元ではない。線路がダメなら道路、道路がダメなら広場、広場がダメなら空へ、空がダメなら地下へ、地下がダメなら地下を突き抜けて地球の反対側で考える。2次元でダメなら、3次元でというところでしょう。

線路を引き方向を変えても良いし、線路と列車を諦めて道路や広っぱ、草原、それが何であれどこを目指すのであれ、好きな方法で進めばよいのです。

人生、どう生きても良いのです。人から見てクズのようでも、虫のようでも、世の中を「我執」を越えた自分が操るのです。世の中の方を見方を変えた自分が変えるといっても良いかもしれません。