2012-07-18の「kaiunmanzokuのざれごと、たわごと、綺麗事」のコメントをご紹介

【中国・明代の『石泉山房文集』の一節に赤嶼(大正島)が「琉球の境」と記されている】に書いたコメントは、ただのコメントとしておくのに惜しいと思ったので再紹介することとした。

もともとのブログはこちら。この下段にコメント欄がある。
ブログで産経に紹介されたいしゐのぞむ氏の主張を掲載したところ、光栄にも人民日報が取り上げてくれた。
http://d.hatena.ne.jp/kaiunmanzoku/20120718/1342577546


                  1. 以下がコメント ++++++++

人民日報で酷評されている記事は私の記事のようですね。私のような素人を相手にご苦労様です。 http://j.people.com.cn/94474/7891239.html この記事は北京政府が主張している根拠の一つが崩れたことを述べているだけである。明の領土は大明一統志に大陸の沿岸部までであると明記されているのである。倭寇が川を伝わり内陸奥地まで入りこむ中、沿岸近くの海上の島々ですら、統治(コメント原文ではなぜか「党治」と誤変換している。明代には共産党は存在していなかったのに・・・他のブログに中共の悪口を書いていたために起こった変換ミスだろう)できていなかったという傍証はいたるところに発見されている。琉球人の協力なくして琉球まで渡れなかったことも然り、下記は いしゐのぞむ氏の八重山日報への記事である。

非常に感銘したので、紹介する。

▼陳侃(ちんかん)の三喜
 尖閣を熟知するのは琉球人であった。その代表が、最古の記録、西暦1534年の「陳侃の三喜」である。明國の使節陳侃は、福州から出航前、未知の琉球への渡航を畏(おそ)れた。そこに琉球の貿易船が入港したので、情報を得られると喜んだ。一喜である。次に琉球から迎接船が入港したので、先導船になると喜んだ。二喜である。次に迎接船が針路役及び水夫を派遣して陳侃と同船させ、琉球までの指導を申し出た。三喜である。
明らかに琉球人のお蔭で尖閣を記録できたと分かる。
琉球人のもてなしの心が記録から溢れてくる。
以後の歴代記録でも常に琉球人に褚り切りだった痕跡が、そこかしこに見られる。我々は「陳侃三喜」を四字成語としてひろめて行きたいものだ。長崎純心大学 石井准教授 八重山日報  http://www.yaeyama-nippo.com/2012/12/01/%E9%A6%AC%E8%8B%B1%E4%B9%9D%E9%96%A3%E4%B8%8B-%E5%B0%96%E9%96%A3%E5%8F%B2%E6%96%99%E3%81%94%E6%8F%90%E4%BE%9B%E3%81%AB%E6%84%9F%E8%AC%9D-%E6%9C%80%E7%B5%82%E5%9B%98-%E7%9F%B3-%E4%BA%95%E6%9C%9B/ …。