珍説弓張月 鎮西八郎 鶴、籠を出でて恩に答える

あれだけの体格だ、さぞ、弓勢も強力なことであろうと、忠国が見ると、為朝の弓には鉄製の枴(「おうこ」杖状の板)が押し込められている。

 

忠国は、

 

「人には多かれ少なかれ驚きの一面があるとは知ってはいたが、このような強弓を引ける者がいるのであろうか、前代どころか後代にも未聞のことであろうよ。」

 

と驚き称え、大変頼もしく思ったという。

 

猿は遥かに上の方で為朝を見て、獣の持つ本能で「天敵現る、これは逃れ難し」と知ったのであろう、我が身の不幸を嘆くかのように、のたうち回り、身を震わせている。

 

その時、寺の住職が役僧を忠国のところに遣わし、

 

「当寺は仁明天皇(にんみょうてんのう)の勅願寺で、弘法大師が開基したものです。特にあの仏塔には勅封の仏舎利が納められています。これに対し、弓引くことは朝敵仏敵に等しいのではありませんか。
且つ、猿に罪があるとはいえ、ひとたび境内に入って来たのを無下に殺してしまったのでは、仏道を歩む法師として忍び難いものがございます。」

 

と、ああだ、こうだ、と猿を許すように懇願する。仁明天皇は大師様を「真言の洪匠、密宗の宗師」とよび、大師の「荼毘のお手伝いができなかった」ことを後悔されたと「続日本後紀」に記されているそうな。

 

忠国、眉を顰め

 

「あの猿が神聖な境内に入り来たは事実だが、人殺しをした猿である。敢えて許すような理由も心もないわけではないが、勅封の仏舎利を収めた宝塔に向かいて矢を放ってしまっては後難はかり難し。どうしたものだろうか。」

 

と煩悶する様子が見え、為朝も意の用い方を変えた方が良さそうだと観念して元の場所に戻って行ったものだから、猿は急にまた元気になって、

 

「あの様を見よ」

 

とばかりに指差し、常軌を逸する辱めを再び始めだす。一方の忠国はただただ憤りを堪えに堪えているという有様。

 

為朝も、この役僧の申し入れで当初の思惑が狂ってしまった。というのは、今猿を射殺してしまうのは自分の技量ではたやすいことではあるが、それは出来ないと思ったからだ。

 

「もし、あの八町礫の紀平治を共として連れて来ていて、彼が傍らに居たならば、弓矢を用いずともあの猿を仕留められるだろう。しかし、その紀平治を置いて、この為朝は、はるか遠くの国で、この試練を受けているのだ。それは叶わない。どうすれば・・」

 

とばかりに、様々な思いが心を駆け巡るのだった。

 

 

そんな思いに浸っていると、籠の中の鶴が突然羽搏いて、今にも飛び出したいという様子であったので、為朝はそれを見て、

 

「そう言う事であったか」

 

と喜び合点したのである。

 

「この鶴が夢で告げた『阿蘇の宮のほとりにて放てよ』というのはまさにこのことであった」

 

そして、胆太くも、重々しく、忠国に向かいて、

 

「それがし、弓矢を用いらずして、彼の猿を打ち落としてご覧に入れましょうぞ」

 

と宣言したものだから、機嫌が良くなかった忠国も悦び、

 

「既に宣言したことでもある、疾く疾く思いついたとおりにやってみせよ」

 

為朝が籠の戸を開けると、鶴は虚空を遥かに舞いあがり、どこへ行ったやら姿が見えなくなってしまう。

 

忠国主従はこれを見て冷笑する。

 

「さてさて、稀に見る愚か者であることよ。鷲鵰(ワシ)であれば猿を捉えることもあるだろうが、鶴が獣を捉えるなどと言う事は聞いたことも無い。」

 

為朝もこの有様にふと疑念が湧いたのではあるが、それでも無表情で空を眺めている。

 

すると鶴は西の方より塔の火珠と呼ばれる宝塔の高いところから、なお一丈も高いところを飛び去る。猿は真上を飛ぶ鶴を仰向けに、瞬きもせずに凝視し、近寄ったなら掴もうとする様子である。鶴は、何度も、猿のいるところを、或る時は高く飛び、ある時は低く飛びしていたが、そのうち、猿との距離がうんと近いところを飛んだ。

 

とすると、どうしたことであろう、突然猿は大いに慌てふためき火珠を走り下らんとする。そこを逃さず鶴はサッと急降下してやって来て、猿をくちばしで丁と突いた。

 

猿はたちまち血を飛ばし、その血に体が塗れたかと思うと、ドウとばかりに地に落ちる。

 

鶴は、それを見届けたのか、構わずに高く高く飛んだかと思うと南の方へ飛び去って行ってしまった。

 

これを見た者は皆、一斉に感嘆の声を上げ、しばらく鳴りやまない有様である。
忠国も喜びに耐えられない様子を隠そうとしない。為朝と共に彼の猿の死にざまを検分すると、猿は背中から胸を貫かれて死んでいる。目と鼻の間には砂の塊が付着している。

 

忠国が猿の死骸に手を合わせて言う、

 

「あの鶴は、どこかに飛び去ったように見えたが、その時、この砂をくちばしに入れて来て、猿の目潰しに使ったのであろう。飛ぶ鳥と言えども、ことに臨んで強敵を打ち負かそうとするための知恵。見習うべきぞ。本当に不思議なことではあるが、実に感動的なことだ」

 

そして為朝に向かい威儀を正して、

 

「あなたは誠に不思議な世界の人のように感じられるが、きっと名のある武士に違いない。」

 

為朝、微笑んで

 

「長い間、父為義の不興を得て豊後に身を寄せていました。八郎為朝というものです。かの鶴についてはいろいろ話すべきことがございますが、一朝一夕には話しつくせません。幸いにしてあなたが後見者となっていただけるというのは願っても無いことです。」

 

忠国はこれを聞き驚き喜ぶ事、ただならぬ有様。

 

「これはこれは思いもかけず、源家の御曹司にておわしまするか。器量、骨柄、平人(ひらびと)には見えないのも当然。ついにこうしてお会いできたのは、我が身の幸運というもの。それがしは不才なれども弓矢とっての駆け引きは少なくありません。気に入っていただければ娘の白縫をあなたの妻として進呈して、晋秦の好(しんしんのよしみ)を結びたいと思います。受けていただけますでしょうな。」

 

為朝、

 

「当方より、乞い願わんといったところです」

 

と返事をしたものだから、忠国も、忠国の家隷(いえのこ)どもも悦び極まって「万歳」を叫んで、阿曽のお家と為朝に祝意を示したという事だ。

 

こうして忠国は為朝を伴い、士卒を率いて館に戻って行った。

 

彼の猿は、住職の聖僧が「人殺しをした罪はあるが、寺に逃れてきたにもかかわらず、ついに救い得なかったのは哀れであり残念である」と、その屍を山門の外に埋めて墓碑を作り、名付けて猿塚としたそうな。

 

(原典の現代語訳及び脚色、小説化は、本FBページ主の いい しげる によるもの)

画像は、楊洲周延作のもの「学研 椿説弓張月 平岩弓枝 1981年 初版本」から一部を撮影した。写真の説明はありません。