ウイグル・東トルキスタンを知っていますか(その3)


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ウイグル人の歴史


国史料に狄(てき)と記されるのが、テュルク系民族に関する最古の記録とされる。狄は周代に中国の北方(に割拠し、春秋時代には衛・鄭・晋などと折衝した。やがて狄は赤狄,白狄などに分かれ、戦国時代に中山国を建てるが紀元前296年に趙によって滅亡する。その後は「北狄」「戎狄」と称される。
古代の東トルキスタン地域からタリム盆地には疏勒,亀茲,焉耆,高昌,楼蘭などの都市国家が交易により栄えたが、月氏匈奴などと支配権を争いその支配下に入ることもあった。

高車(袁紇部)
丁零(丁令。「テュルク」とも)は匈奴と同時代にモンゴル高原の北方、バイカル湖あたりからカザフステップに居住していた遊牧民であり、匈奴に叛服を繰り返していた。匈奴分裂後、東の鮮卑モンゴル高原の支配権を握ったが、五胡十六国時代鮮卑が衰退すると丁零が台頭し、388年、中国の黄河で翟魏を建てた。その後、丁零人は南北朝時代に中国の拓跋氏政権から高車と呼ばれるようになる。「高車」とは4〜6世紀の中国北朝におけるテュルク系遊牧民の総称である。

柔然北魏時代
袁紇部は、モンゴル高原をめぐって拓跋部の代国や北魏と争っていたが、後に台頭してきた柔然に4世紀末から5世紀初頭に柔然可汗国に従属した。429年には高車諸部族は北魏に服属し漠南へ移住させられた。487年、高車副伏羅部の阿伏至羅柔然の支配から脱し、一旦は独立を果たす(阿伏至羅国)が、6世紀に柔然に敗れて滅亡した。

突厥
555年、柔然可汗国は突厥に滅ぼされる。突厥柔然の旧領を凌ぐ領土を支配し、中央ユーラシアを支配した。東ローマ帝国の史料にも「テュルク」として記されている。
また突厥は自らの言語(テュルク語)を自らの文字(突厥文字)で記し、突厥碑文を残した。
582年に東突厥と西突厥の東西に分裂し、8世紀には両突厥が滅亡する。

鉄勒の回紇部
ジュンガル盆地の鉄勒の中から回紇(ウイグル)部が台頭し、8世紀には突厥を滅ぼす。
6世紀〜7世紀の鉄勒時代には烏護,烏紇,韋紇などと記され、やがて迴紇,回紇と表記されるようになる。当時、鉄勒諸部は中央ユーラシアの突厥可汗国に叛服を繰り返していた。
隋代に42部を数えた鉄勒諸部は、唐代に至ると徐々に東へ移動・集合し15部となり、その中でも回紇部は特に強盛となってモンゴル高原の覇権を薛延陀部と争った。
648年に部族長の吐迷度が、内乱を唐の介入によって平定したため、唐の羈縻政策下に入り部族長は大イルテベル(大俟利発)・瀚海都督・左驍衛大将軍を名乗った。
7世紀後半に東突厥が再興すると再び屈従を余儀なくされるが、741年に唐との挟撃により東突厥を滅ぼした。

ウイグル可汗国
744年、クトゥルグ・ボイラ(骨力裴羅)は回鶻可汗国(ウイグル可汗国、ウイグル帝国)を建国する(- 840年)。回鶻可汗国は東突厥の旧領を支配し、モンゴル高原の支配者となった。
756年、安史の乱ウイグル軍と唐連合軍は反撃を開始、翌757年11月には長安を奪回する。763年正月に残党史朝義を討伐し、8年に及ぶ安史の乱終結させる。
789年から792年まで、チベット軍との北庭争奪戦を行い、ウイグルが奪われた北庭を奪還し、唐軍と共に吐蕃の首領を捕え、勝利し、トルファン盆地を含む東部天山地方全域がウイグル帝国の領域となり、タリム盆地北辺がウイグル領、タリム盆地南辺がチベット領となった。
三国による戦争は、821年、ウイグルチベット、唐の間での三国会盟が締結された(長慶会盟)。ゴビ=アルタイ東南部のセブレイにあるセブレイ碑文が現存している。これはウイグル側が三国会盟を記念して建立したとされる。

ウイグル帝国(回鶻可汗国)は天災と内部紛争で崩壊。カルルクに逃れた者たちがチュルク系初のイスラーム王朝であるカラハン朝を建国した。

また、吐蕃に逃れた者たちは甘州を中心に甘州ウイグル王国(甘州回鶻)を形成し、1028年のタングートによる甘州陥落まで勢力を保つ。現在、中華人民共和国領の甘粛省の西部に居住するテュルク系民族のユグル族(裕固族)は、このとき甘粛に移住したウイグルの末裔とされている。

安西に割拠した者たちは天山ウイグル汗国を建国してこの地で定住化し、「ウイグル(Uyghur)」とか「トゥグズグズ(Tughuzghuz)」などと呼ばれた。この天山ウイグル王国は12世紀までは独立した国家であったが、東から来た西遼(カラ・キタイ)、つづくモンゴルといった新たな遊牧国家に服属するようになり、13世紀には消滅した。

西遼・モンゴルへの服属
12世紀に入り、東から耶律大石がこの地を征服して西遼(カラ・キタイ)を建て、ウイグル族はこれに服属するようになる。
13世紀にモンゴルでチンギス・ハーンが勃興すると、1211年にウイグル国王(イディクト)バルチュク・アルト・テギンがこれに帰順した。
モンゴル帝国ではウイグル王家は「ウイグル駙馬王家」としてコンギラト駙馬家と並ぶ、駙馬王家筆頭と賞されモンゴル王族に準じる地位を得た。
モンゴル帝国以後はイスラーム化した。

ヤルカンド・ハン国
1514年トルファンの支配者アヘマの子サイードが、カシュガルでハン位に就き、ウイグル人国家であるヤルカンド・ハン国が成立した。
最盛期には天山以北のバルハシ湖南岸やパミール高原以西のフェルガナ盆地にまで及んだが、政権内権力闘争やイスラム教の教派対立によって衰えた。
ヤルカンド・ハン国は、17世紀に北方からやってきたオイラト族ジュンガル部に滅ぼされた。

清朝への併合
1755年、清の乾隆帝はモンゴル軍と満州軍を動員した大軍を進軍させ、ジュンガル帝国を滅ぼした。
清朝政府は、天山山脈北部にイリ将軍府を設置し、旗人による軍政を敷いた。ウイグル族の住むこの地域は清朝の支配では、イリ将軍統治下の回部として、藩部の一部を構成することとなり、その土地は「ムスリムの土地」を意味する「回疆」、もしくは「新しい土地」を意味する「新疆」などと呼ばれた。その一方、ムスリム社会の末端行政には、在地の有力者に官職を与え、自治を行わせる「ベグ官人制」が敷かれ、在地の社会構造がそのまま温存された。このベグ官人制は1884年の新疆省まで存続した。
ジュンガルを継承した清朝も1760年以降イリ地方などへ強制移住(入植)を数度にわたって行っている。

ロシア
東トルキスタンはかつてウイグリスタン、モグーリスターンとよばれ、西トルキスタンはマーワラーアンナフルと呼ばれていたが、これらの地域をトルキスタン」と一括する慣習は19世紀以降のロシアによる。
汎テュルク主義
また、ロシア領内のテュルク人の間では、19世紀末からムスリムの民族的覚醒を促す運動が起こり、オスマン帝国を含めてテュルク人の幅広い連帯を目指す汎テュルク主義(汎トルコ主義)が生まれた。しかし、ロシア革命が成功すると、旧ロシア帝国領内に住むテュルク系諸民族は個々の共和国や民族自治区に細分化されるに至った。一方、トルコ革命が旧オスマン帝国であるアナトリアに住むトルコ人だけのための国民国家であるトルコ共和国を誕生させた結果、汎テュルク主義は否定される形となった。

清からの離脱と再併合
19世紀後期、コーカンド・ハン国の軍人ヤクブ・ベクの手によっていったん東トルキスタンの大半が清から離脱する。しかし、間もなく清は欽差大臣の左宗棠を派遣して再征服に成功した。1884年新疆省を置く。これによって清朝内地並の行政制度がしかれることとなった。
この新疆省の設置によって民族自治の権利が剥奪され、ウイグル人漢民族出身者による直接支配下に入った。しかも、新疆省省長は1940年代半ばまで当地の軍最高指揮官(督弁)を兼任し、いずれも漢民族出身者が就任した。この「新疆省」は辛亥革命清朝が倒れ、中華民国が成立したあとも踏襲され、行政区分としては1955年に新疆ウイグル自治区に改組されるまで続いた。

東トルキスタン
テュルク系イスラム教徒によって、20世紀前半に中華民国の新疆省であった中央アジア東トルキスタン地方において樹立された政権。
東トルキスタン西南部のタリム盆地カシュガルを中心とした第1次東トルキスタン共和国(1933年〜1934年)、
東トルキスタン北部のイリ・タルバガタイ・アルタイの3区を拠点とした第2次東トルキスタン共和国(1944年〜1949年)
があり、歴史上2度にわたり、それぞれ別々の地域を拠点として樹立され、いずれも一定の期間、東トルキスタンの一部において実効的な独立政権を実現した。現在はアメリカ合衆国東トルキスタン共和国亡命政府の本部が置かれており、中国を侵略者であるとしている。

1933年から1934年にかけて存在した第1次東トルキスタン共和国は、1930年代始めに東トルキスタンを支配していた新疆省政府に対してウイグル人が主体となって現地のイスラム教徒の独立運動を糾合し、タリム盆地西南部のカシュガルに建設された政権である。タリム盆地南部のホータンでは、1933年初頭にムハンマド・アミーン・ブグラらが、在地の宗教指導者をリーダーに戴き、反乱を起こした。ホータンの反乱軍は漢族の官吏を追放してホータンを支配すると、西のヤルカンド、カシュガルへ進軍し、ハミ、トゥルファンから逃亡してきたホージャ・ニヤーズらの勢力を糾合して11月12日に東トルキスタンイスラーム共和国の建国を宣言した。
南京国民政府に新疆辺防督弁に任じられていた盛世才(新疆王と呼ばれた軍人)の新疆省政府は、トゥルファンを占拠する馬仲英(回族軍閥)にウルムチを脅かされ、ソビエト連邦に介入を要請。翌1934年の初頭に新疆に入ったソ連軍によってトゥルファンを追われた馬仲英の軍は、ホータンに侵攻し、東トルキスタンイスラーム共和国の軍隊を壊滅させた。軍の崩壊を受け、大統領のホージャ・ニヤーズは、ソ連を通じて省政府督軍の盛世才と交渉を行い、首相のサービト・ダーモッラーを新疆省政府に引渡し、自らは省政府副主席に就任し、盛世才率いる省政府に寝返り、共和国は崩壊した。

1944年から1949年にかけて存在した第2次東トルキスタン共和国は、第二次世界大戦期にソ連の支持を得て高揚した東トルキスタン独立運動によって、新疆省の北部のグルジャに樹立された政権である。中国からの独立政権を目指していた。1944年にイリ渓谷のグルジャ(伊寧市)で蜂起した独立軍が同年11月12日に建国した]。反乱軍はソ連軍が、装備、要員面で協力しており、12月までにイリ地区の全域が反乱軍の手に落ちた。1945年9月、東トルキスタン軍が、ウルムチへの進軍を始めたため、新疆省政府はソ連に和平の仲介を要請した。「独立国」東トルキスタン共和国の頭越しにソ連と国民政府の直接交渉が行われ、ソ連はアリー・ハーン・トラ主席を自国に連れ去ってしまった。この結果、東トルキスタン共和国1946年、ソ連の意思に従って新疆省政府に合流させられた。
1949年、国共内戦を制した中国共産党は、12月までに人民解放軍を「新疆」全域に侵入展開し、東トルキスタンを完全に侵略統合した

天安門事件の翌年の1990年4月5日から6日にかけて、カシュガルから30kmほどに位置する新疆西部アクト県バリン郷(巴仁郷, Baren Township)においてバリン郷事件(Baren Township riot)が発生した。4月5日未明、郷政府を襲撃したウイグル人住民230名余りが、コーランを唱えデモを行った。説得に応じなかったデモ隊に対して郷政府所属中国人民武装警察部隊が出動、銃撃を行い、銃撃戦となった。デモを指導したツェディン・ユスプら15名が射殺された。

1997年2月5日、グルジャ事件(イニン事件)がグルジャ市(伊寧市)で発生。香港では600名が負傷、不明者150名、逮捕者1500名と報道された。カザフスタン東トルキスタン統一革命民族戦線は、漢族住民55名、ウイグル人20名が死亡したと発表した。中国側は「共産党政権の転覆を目的として民族分裂主義者の破壊活動」とした。4月24日にはイリ中級法院伊寧市人民法院は公開裁判をひらき、暴動の首謀者ユスプ・トルソンら3名を死刑に処した。

ウルムチにおけるウイグル人虐殺事件
2009年7月5日に中国の東トルキスタン支配に抗議する大規模なデモがウルムチで行われ、武装警察の鎮圧によりウイグル人1,500人が射殺されたとされている。その後、1万人のウイグル人が行方不明となった世界ウイグル会議は訴えている。
http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2619256/4342444