鎮西八郎源為朝の登場

後に鎮西八郎(ちんぜいはちろう)として知られる我らが英雄、源八郎為朝(みなもとのはちろうためとも)は、清和天皇より七世の皇孫、八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)が嫡孫、六条判官為義(ろくじょうはんがんためよし)が八男として生まれいず。

 

仁平元年(1151年)齢十三にして身の丈七尺、狼の如き鋭き目と猿のようなる長く頑丈な腕を持ち、弓を弾いては天下に並ぶものなき若武者と呼ばれておった。

 

生来より、智勇に秀で、多くの兄たちを凌ぐ胆力を見せつけていた。だから父の為義も内心にて、我が子ながら末頼もしい奴、と目をかけていたのだった。

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時は、鳥羽天皇が御年二十と一年にして、皇位(みくらい)を一の宮、顕仁王(あきひとおうのきみ)に譲位なされ、御身は上皇として政をご覧になっておられた世のことである。

 

その保延五年(1139年)五月は十八日に、鳥羽上皇の寵姫、美福門院が御腹にて皇子が誕生なされる。鳥羽上皇はこの皇子を大いに愛で賜ひ、まだ三歳というに、強いて先帝である崇徳天皇(顕仁王)を退け、天子の座にお据えになられた。

 

先帝は心ならずも、皇位を退かれ、密かに父である鳥羽上皇をお恨みあそばされていた。この君が崇徳上皇として世に知られている人物であり、当時の人々は、もう一人の上皇という意味で、慣例により「新院」とお呼び申し上げていた。

 

すなわち、この時、御位にお着きになったばかりの3歳の天子の他に、お二人の上皇がいらっしゃったこととなる。

 

何と言っても、鳥羽上皇の権勢が並び無き世であったために、御位を去ったばかりの新院、崇徳上皇の御方へ、参上する人々も、ただただ少なくなるばかりだった。

 

しかし、そんな中でも公卿では宇治左大臣頼長、少納言信西入道、武家では六条判官為義(われらが英雄 為朝の父親)などが、傷心の新院をお見舞い申し上げていたという。

 

ある日、少納言信西が新院である崇徳上皇の下に参上し、韓非子についてご講義を進呈申し上げる折に、為義朝臣もその聴聞のために若殿の八郎を連れて参内していたのであった。

 

その参内の時、崇徳上皇少納言信西
故実の真実を問うというのも良いが、今の世に強弓(つよゆみ)と呼ばれるような弓の名人と言えばだれであろう」
とお尋ねになった。

 

信西
「過去には吉備臣盾人宿祢、今の世には安芸守清盛(平清盛)、兵庫頭頼政源頼政)の二人でありましょう」
と申し上げた。

 

すると宮殿の階段から冷ややかな笑い声が聞えて来た。

 

このあざ笑う声に信西入道は大いに怒って、
「これは不敬である。笑うのは誰であるか。」
と問うてみると為義は、
「あれは私の八男、まだ小童の為朝と申すものです。貴殿がなさる韓非子の講義を聞かせようとて、召し連れてまいりました。」
という。

 

そして、その小童に過ぎない為朝が、
頼政はただ紫宸殿の上に現れたる鳥を化け物と間違えて射殺したのみ。清盛も内裏で怪鳥を打ち落とすつもりで、落としてみたら大鼠だったではないか。鼠なら猫でも獲る。鳥なら猟師も射られるというもの。そのような者どもが強弓と呼ばれようとは噴飯もの。また、わが父為義は十四の時に勅を賜り十七騎で幾千の軍勢を打ち破った。もし、今の世に弓矢をとって、百万の強敵を退けん者は、その子である、この為朝の右に出る者はなし。」
と申したものであるから、信西は驚きあきれ果て、また不快に思って、

「諸芸は数多の年月をかけ切磋琢磨し、ようやく極意を掴むという。ただ蒲衣が八歲にして舜の師となったように、賢愚巧拙は年も論も通用しないこともある。なに、この小童がそのような天才である訳がない。ここは為朝を懲らしめてやろう」

と考え、


「弓をよく射る者は、よく防ぐという。これから弓をよく使うものにお前に向かって、矢を射させてみよう。これをよく防いでみると良い。」


と言うと、為朝は恐れもせず、この挑戦を受けて立った。

 

(原典の脚色現代語訳は本ページの所有者 いいしげる

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