中国・明代の『石泉山房文集』の一節に赤嶼(大正島)が「琉球の境」と記されている


中国・明代の『石泉山房文集』。赤線を引いた一節に赤嶼(大正島)が「琉球の境」と記されている=「四庫全書存目叢書」(荘厳文化公司)から
出典:産経記事http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120717/plc12071708420009-n1.htm

「行きて閏(うるう)五月初三日に至り、琉球の境に渉(わた)る。界地は赤嶼(せきしょ)(大正島)と名づけらる」と記してある。「琉球の境界にあるこの島は赤嶼(せきしょ)(大正島)と名がつけられています」ということ。

7月17日付の産経新聞によると、石井望・長崎純心大准教授(漢文学)の調査で中国・明から1561年に琉球王朝(沖縄)へ派遣された使節、郭汝霖が皇帝に提出した上奏文に尖閣諸島沖縄県石垣市)のひとつ、大正島(赤嶼)が『琉球』と明記されていたことがわかった。



郭汝霖 (かくじょりん):
生没年未詳 尚元の冊封正使。1562年に来琉。渡琉前に琉球側から冊封に関する詔勅を福建で賜与する提案が出されたが、明朝側が祖制の尊重等の理由でこれを拒否。結局郭汝霖等を遣わした。郭汝霖「重編使琉球録」(嘉靖41年、西暦1562年)

郭汝霖は嘉靖41年(西暦1562年)琉球に使した際に「重編使琉球録」と言う航海日誌のなかで「閏五月初一日過釣魚嶼初三日至赤嶼焉赤嶼者界琉球地方山也再一日之風即望姑米山」と記した。

これは「閏五月初一日に釣魚嶼(魚釣島)を過ぎ、初三日に赤嶼へ至る。赤嶼は琉球地方を界する山(島)で、更に一日進むと姑米山(久米山)を望むことができる」との意であると思われるのだが、中国側は「赤嶼が琉球との境であり、その東の久米島から琉球の版図であるから、赤嶼から西、つまり魚釣り島を含む尖閣諸島などは中国の台湾の付属島嶼だ」と自己中心的な一方的解釈により、この文献を中国領有論の根拠の一つとしてきた。

今回指摘された上奏文は「使琉球録」の記述よりもより詳細であり、少なくとも郭汝霖は、大正島を中国の版図であるとは認識していなかったことが明らかになった。

一言付言すると、中国側が尖閣諸島をどう認識していようと、有効な支配権が及んでいないことが重要だ。そもそも当時は台湾の付属島嶼どころか台湾本土にすら明の主権は及んでいないこと、冊封国家である琉球使節宗主国である大陸を訪れる頻度の方が多かったということの二つの事実に留意する必要がある。
1550年60年代の海上覇権は琉球倭寇のものであった。
1555年に倭寇が南京に迫り。1563,4年には大陸(福建)周辺で倭寇と中国軍の海戦がおこなわれている。彼ら琉球人の協力なしに大陸と琉球を往復することは不可能であったに違いない。